危機に瀕する「商店街」、そもそも地方都市の中心部に必要なのか

wanwei2025202025-06-20 15:03:01
  2016年、または2017年問題と言えるほどに、ここ1、2年のうちに地方都市の中心商店街の風景が急激に変わっている。   老朽化が進み、廃業を決め、空き物件として放棄されるか、高層マンション等の住宅に変えられる百貨店、ホテルなどが続々と増加しているのである。   こうした急速な変貌は、従来語られているように中心部の移動や、後継者不足など(だけ)によってもたらされたわけではない。より直接的な背景となったのは、近年の災害に対する不安である。   東日本大震災後、より安全な街をつくることを目指し、2013年に耐震改修促進法が施行された。それによって、経年化した大型施設の耐震診断の結果報告が2015年末までに義務づけられたのである。   結果、多くの地方中心街の大規模建造物が耐震基準を満たしていないことが判明し、何らかの対処が求められている。たとえば山形県では14施設、青森県では9施設、福島県では19施設が名指しで倒壊の危険性が高いことが指摘され、耐震改修や再建が促されている。   こうした動きは、たしかに英断といえる。新しい建物や道路をつくるのではなく、今ある建物の安全性を検証し、できれば補強することがようやく都市計画の課題の中心に上り始めた。   ただし地方都市では、それはパンドラの箱を開けることにもなった。耐震改修、または再建築のためには、今後の経営の見通しが立たなければならない。   しかしそれができる百貨店やホテルは限られており、他は身売りや廃業の道だけが残る。南東北を例とすれば、福島駅前のにぎわいを支えてきた中合2番館が、また山形駅前でも十字屋百貨店が今年閉店を決断しているのである。   安全・安心の追求は、こうして皮肉にも地方中心街の空洞化や宅地化を招いている。ひとつには、地方都市の経済的沈降のためである。活発に消費を行う層が先細りし、さらに郊外に流出することで、中心街への新たな投資がむずかしくなった。   ただし具体的にみれば、商店街の衰退は、少子高齢化や郊外化、またはEコマースの興隆といった最近の現象を原因としているとは片付けられない。   商店街が現在、危機を迎えているのは、それをこれまで繁栄させてきた「歴史」そのものが足を引っ張っているためではないか。いうなれば商店街は、20世紀後半の繁栄を支えてきたその「遺産」を食い潰し、逆にしっぺ返しを受けているようにみえるのである。   このことをみるために、まず商店街が近代の産物として発展してきた面が強いことを確認しておこう。   酒屋や八百屋、洋服屋といった専門業種が集まり、独自の組織を作ることで、商店街は20世紀初めに全国でかたちをなし、拡大していった。   それを支えたのが、購買力をもつ都市住民の増加である。   企業の成長、教育機関の充実、軍隊の拡大などに伴い、増大した都市の新中間層の欲望を商店街はうまく掴み成長した。   それらの人たちが気に入る、少し品質の良い専門的商品を品揃えすることで、商店街での買い物は都市生活のなかで一種のステータスを獲得してきたのである。   その意味で通常言われるように、商店街が百貨店などの大型店と敵対した面だけではなく、それらの店舗と同じ地盤の上に立って成長してきた面にも注目する必要がある まず商店街は、百貨店と同じく、消費にこだわる都市民の増加に後押しされ、その客を分け合うことで発展してきた。   加えて大切になるのが、20世紀後半には、多くの商店街が大型店の繁栄に結びつき、成長してきたことである。   商店街の最盛期をいつと判断することはむずかしいが、そのひとつが1980年代にあることは事実といえよう。多くの中小都市で人口が飽和することに並行し、小売業の数も1982年に172万店と頂点に達した(商業統計調査)。   その無視できない部分が商店街に位置したという意味で、背景には商店街の活性化が想定される。実際、山形市のデータをみても、80年代に中心商店街に買い物に出かける割合はむしろ上昇していたことが読み取れる。   以上のような80年代の繁栄の足場になったのが、とくに中心商店街への百貨店やスーパーの進出である。   地方都市の駅前や中心街に位置する大規模店舗の開店年を調べると、1970年代初めにしばしば集中していることに気づく。たとえば、先にみた福島の中合は1973年に、山形の十字屋は1971年に出店している。   開店が重なるのは、たんにその時代の景気が良かった――以後オイルショックで景気は後退する――ためだけではない。決定的だったのは、それ以降、中心街に大規模店をつくることが大幅に難しくなることである。   1973年に大店法(大規模店舗法)が制定され、中規模以上の店舗をこれ以上街なかにつくることが厳しく規制され始める。そのせいで郊外へのロードサイドショップの出店が増加し、それが皮肉にも商店街の衰退を招いたとしばしば分析されている。   しかしそれだけではなく、とくに地方の中心商店街では、大店法がその繁栄を支えた面を見逃せない。大店法の規制を恐れ、駆け込みで中心街に百貨店やスーパーなどの大型店舗が商店街に建てられる。   そこに来る客を取り込み商店街は繁栄したのであり、さらに大規模店舗は、大店法以後、それを建設しにくくなった他の商店街との差を大きく広げるキラーコンテンツにもなった。   この意味で商店街が大規模店舗に敵対しただけではなく、それに依存してきた面を否定できない。   大規模店舗に依存することで、地方の商店街はしばしば他を圧する「中心」商店街へ成長するとともに、地域の経済や政治を牛耳ることに成功してきたのである。   ただし蜜月は長くは続かなかった。外圧を受け90年代に大店法がなし崩しに解体されるなかで、巨大なショッピングモールが郊外に林立し、商店街の客を奪い始める。   たんにモータリゼーションの進展や郊外化によって地方都市の交通のあり方が変わったからではない。それまでの多くの商店街の繁栄が、厳しくいえば大店法の規制の上にあぐらをかいたていたことが問題の核心にある。   郊外に建てられたショッピングモールは、新たなグローバルな流行を次々と取り入れることを特徴とする(参照「巨大化するショッピングモールは、地方都市の『最後の希望』か『未来の廃墟』か」)。だからこそ商店街がそれに対抗することはむずかしかった。   大店法によって逆説的にも守られた既存の大規模店舗に集まる客をあてにして、むしろ投資を少なくし、できるだけ時を止めることが、多くの商店街で経営の最適解となったからである。   そうして商店街では新たな商品の展開や店の出店が抑えられ、またそれゆえ後継者不足も問題化していくが、もちろん新規出店がまったくみられなかったわけではない。むしろ近頃の地方商店街では、個人経営の雑貨店やカフェ、レストランなどの出店が目立つ。   興味深いのは、その多くが老朽化した大規模店内部や、その撤退によって周辺に生じた空き家を活かし出店されていることである。地方都市では大店舗法成立以前に建てられたデパートや商店が大量にストックをつくっている。それが一帯の賃料を引き下げることで、意欲的な出店が続いているのである。   こうして地域を舞台としたリノベーションの進展が、地方都市の数少ない希望として取り上げられることもある。ただしそれがどこまでうまくいくかは、残念ながら疑問も残る。   問題は出店を可能にする地方都市の条件そのものにかかわる。地方都市には、大店法施行までに供給された商業床が安価に賃貸可能なものとして大量にストックされている。それが大都市ではむずかしい、こだわった、また試行錯誤的な出店を可能にしているのである。   しかし冒頭にみたように、「耐震改修促進法」がパンドラの箱を開けたことで、地方都市の商店街をこれまで支えた「資産」も一気に失われている。   築40年を超え、多くの建物が耐久年数の限界を迎えている。その耐震改修や再建が困難なだけではなく、もし再投資が成功しても、テナント料の高い、面白みのない商業空間が残るだけという意味で、地方都市の商店街の持続可能性を楽観視できないのである。   継続的な投資が行われなかった商店街にこうして2016年、2017年に一気に「老い」が襲い、空き家店舗化や宅地化が急激に進んでいる。では、どうすればよいのだろうか。   商店街の復活を願うのなら、鍵になるのは、建物や店舗の新陳代謝をいかに進めていくかだろう。郊外のモールは、戦略的に店の入れ替えを行い、モードに合わせた店舗や商品の展開を実現している。買い物だけのためなら、近年成長しているEコマースに任せても問題はない。   しかしモールは買い物のためだけではなく、「現代」に触れるためのいわば社会的接触(コンタクト)の装置として、地域に受け入れられているのである。   だが商店街ではそれがむずかしい。   新陳代謝を抑えることが、これまでむしろ経営方針となってきたためだが、改革の試みがないわけではない。   たとえばしばしば先進事例として紹介される高松丸亀町商店街は、「「所有」と「使用」を分離」することで、統一的な商店街の運営を可能にした。定期借地権を利用しまちづくり会社が一括して地主から土地を預かることで、モール型商店街の建造や、戦略的な店の配置や入れ替えへの道がひらかれたのである。   ただしそれでバラ色というわけではない。ひとつにはモール化するだけで、店の新陳代謝が自然に進むわけではないからである。利害関係の錯綜する商店街では、不利益者も生むドラスティックな革新を、誰が、どういう立場でやり遂げるかがむずかしい。   実際、震災復興で神戸新長田に官主導でつくられたモール型商店街の場合も、高い管理料や固定資産税を背負ったまま、新たな借り手をみいだせない状況が続いていると伝えられる。   だとすればそこから進んで、そもそも地方都市にとって商店街の復活が望ましいのかどうかを、より本質的に考えてみる必要がある。   これまで政策的にも、論壇的にも、都市を活性化するために街の中心部に賑やかな商店街が営業していることが望ましいとみなされてきた。   そのため少なくない補助金が投下されてもきたのだが、その是非以外にも、そもそもそうした期待が一方で商店街に重荷を背負わせてきた不利益も考慮に入れる必要がある。   休日や夜間にも及ぶ祭りやまちづくりへの参加や、中心街に位置するための相対的に高い地価は、コストとして商品価格に反映されざるをえない。それが、そうしたコストの少ないモールとの競争をそもそも不利にしてきたのである。   その意味で商店街に、まちづくりや都市の賑わいの創出への貢献を期待することが、どこまで正しいことなのか、いま一度疑う必要がある。   そもそも商品の購買活動が街の中心部でおこなわれ、それが都市の活性化に欠かせないとみることは、近代の盲信ではあるまいか。   城や寺社を中心とした近世の街はそうではなかったし、郊外化し、またネットや物流のインフラが整う現代の地方都市でも「消費」の場が都市の中核になければならない理由は実は疑わしい。   にもかかわらず私たちは相変わらず、都市の中心部で行われる「消費」がまちづくりのコストを担うことを当然視し、その回収を商店街に代行してもらっている。   しかし事実上多くの商店街が空洞化、または宅地へと解体している今、これ以上の負担を商店街に負わせることはむずかしい。   むしろ大切になるのは、まず個々の商店がたとえ商店街を離れ、路地や裏道でも、当たり前に商売活動に勤しめる道を探ることだろう。   Eコマースや宅配と共存しながら、個々の個性のある店が都市に分散して存続する道を探すこと。   それを実現するためにも、そもそも都市に中心が必要なのか、もしそうだとしても、「消費」に頼らず、街の中心部を活気づけ賑やかにする別の手段を真剣に模索する時期に差しかかっているのである。
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